筆法伝授|「菅原伝授手習鑑」お家存続をめぐる家来の活躍を武部源蔵を軸に解説

演目

学問の神様として知られる菅原道真公の右大臣時代を題材にした『菅原伝授手習鑑』は、菅原道真公が直面する「勢力争い」「家族」「三つ子の兄弟」「弟子の武部源蔵」の4要素が絡み合い展開する物語です。「筆法伝授」は全五段で構成される本作の序段後半に位置し、菅原道真公と武部源蔵の関係性が理解できる演目です。「筆法伝授」を知ったうえで「寺子屋」を見ると感動が一層深まる構成になっていますので、見どころ満載の「筆法伝授」をわかりやすく解説していきます。

「筆法伝授」の登場人物と人間関係を解説(関係図あり)

菅丞相かんしょうじょう :菅原道真公 
      右大臣として天皇から厚く信頼され
      ている
園生そのうまえ :菅丞相の妻
管秀才かんしゅうさい  :菅丞相の息子
武部源蔵たけべげんぞう :菅丞相の弟子
      園生の前に仕える戸浪と恋仲になり
      菅丞相から勘当されている
戸浪となみ   :武部源蔵の妻
梅王丸うめおうまる  :菅丞相の家来
      菅原伝授手習鑑に登場する
      三つ子の長男      
左中弁希世さちゅうべんまれよ:菅丞相の弟子 
      筆法を伝授されるのは自分だと
      思っている

菅丞相は右大臣であり書道の達人でもあります。
菅丞相(菅原道真)には書の弟子として武部源蔵と左中弁希世さちゅうべんまれよがいますが、優秀なのは武部源蔵です。
しかし武部源蔵は菅丞相の妻に仕える腰元の戸浪と武部源蔵が恋愛関係になってしまい、勘当されたという過去を持ちます。今でいう社内恋愛禁止の厳しいきまりがあったためこの処罰となったのでした。左中弁希世は実力が高いとは言えないものの、武部源蔵にライバル心を燃やしています。

希世は憎めない悪役といった描かれ方をしており、政争や忠義のなかでうごめく群像劇である「菅原伝授手習鑑」の重い雰囲気を和らげる効果があります。長く濃密なお話を観客に楽しんでもらうため、左中弁希世のようなキャラクターは重要な存在です。

「筆法伝授」のあらすじ

菅丞相かんしょうじょうは右大臣の他、書道の名人という顔も持つため「優秀な者に筆法を伝授せよ」と勅命を受けています。菅丞相は悩んだ末に、戸浪となみとの恋愛が原因で勘当した弟子武部源蔵たけべげんぞうを呼び出します。武部源蔵は妻となった戸浪とともに菅丞相の館を訪れますが、寺子屋を営み生計を立てている二人の生活ぶりは苦しい様子です。久しぶりの菅丞相との対面に恐縮至極の武部源蔵に対して、菅丞相は自身が書いた書道のお手本を渡し書いてみるよう命じます。勘当から月日が流れた今も武部源蔵の腕に衰えはないか確かめるためです。

やっかんで邪魔に入る左中弁希世さちゅうべんまれよには目もくれず、見事に書き上げた武部源蔵へ菅丞相は秘伝の書を渡します。勘当された師匠から呼び出され筆法伝授を受けるという展開に武部源蔵は仰天しつつも、勘当を解いてほしいとお願いします。菅丞相は「伝授は伝授、勘当は勘当」と勘当についてはゆるしませんでした。

そのやり取りを園生そのうまえの取り計らいで、ひっそりと見ていた戸浪も涙します。勘当を解いてもらえない以上、今日こそが菅丞相・園生の前夫妻との今生の別れになるからです。

武部源蔵と戸浪が涙ながらに菅丞相の館を去った矢先、菅丞相の館に「謀反人菅丞相とその家族は館ごと幽閉する」という知らせが届き大混乱となります。事態に気づいた武部源蔵と戸浪は梅王丸に「せめてお家断絶を免れるためご子息はお預かりします!」と申し出ます。他に方法はないと悟った梅王丸は菅丞相の幼い息子管秀才かんしゅうさいを連れてきて武部源蔵に託します。戸浪は園の前からもらった打掛で管秀才をくるんで隠し、武部源蔵と必死に逃げていきます。

以上が「筆法伝授」のあらすじです。
こうして武部源蔵は自身が営む寺子屋で管秀才をかくまうこととなり、その日々が根強い人気を誇る「寺子屋」につながっていきます。「筆法伝授」の中で菅丞相は唐突に謀反人とされ窮地に立たされますが、そのきっかけは「加茂堤」という演目で描かれます。菅丞相が謀反人とされた理由について興味がある方は「加茂堤」の記事も読んでみてください。

武部源蔵と戸浪が主人に献身できる理由

はじめて「筆法伝授」に触れた場合、武部源蔵たけべげんぞう戸浪となみがなぜこれほど菅丞相に献身できるのかピンとこない方もおられるのではないでしょうか。執着の理由には当時の感覚や演目の中では描かれない過去のいきさつがありますので、本節で解説していきます。

  • 勘当でも寛大な処分といえた当時の厳しい恋愛事情
  • 親子は一世、夫婦は二世、主従は三世という価値観

勘当でも寛大な処分といえた当時の厳しい恋愛事情

当時は武家であれ商家であれ同じ主人に仕える者同士の恋愛は死罪になることもある重罪でした。武部源蔵と戸浪は独身同士であり現代の感覚では何も問題ないですが、当時は恋愛に発展したことで命を落とす可能性もあったのです。勘当にして館から追放するのみで命までは奪わなかった菅丞相の対処は、武部源蔵と戸浪に深く恩義を刻み込んだのです。

親子は一世、夫婦は二世、主従は三世という価値観

歌舞伎や時代劇のドラマ等で度々登場する価値観に「親子は一世、夫婦は二世、主従は三世」というものがあります。親子は今世限りの縁、夫婦は来世までの縁、主従はさらに三世までの縁という考え方です。この感覚が根底にあることに加えて、禁じられた恋愛関係を勘当で済ませてもらった恩も重なり、武部源蔵と戸浪は菅丞相と園生の前に対して執着とも言えるような情熱を向けているのです。

戸浪のやりとりから考える園生の前の人物像

菅丞相かんしょうじょう武部源蔵たけべげんぞうは師弟関係ですが、戸浪となみ園生そのうまえの腰元をしていたため主従関係にあります。しかし戸浪は道義的に園生の前を敬っているのみならず、人柄が素晴らしいので慕っていると見て取れる場面があります。本節では戸浪とのかけあいからわかる園生の前の人柄について解説していきます。

  • 最後まで手放せない戸浪の打掛
  • 戸浪を全力でバックアップする園生の前

最後まで手放せない戸浪の打掛

菅丞相に呼び出された時、武部源蔵と戸浪は寺子屋を営んでいましたが生活は苦しいものでした。身の周りのものを売りつつ暮らすなかで、戸浪がどうしても手放せなかったものがあります。腰元時代に園生の前からもらった打掛です。その打掛を石持こくもちという質素な着物の上に羽織って戸浪は武部源蔵とともに菅丞相の館にむかいました。石持は胸元の家紋部分に家紋が入っておらずただ白い丸に染め抜かれた着物で、歌舞伎では身分の低い人という描写の時に着ていることが多い着物です。石持の上に貴人から拝領した打掛を羽織っているというのはアンバランスではありますが、それが戸浪の生活や人柄のにじみ出た姿と見て取れます。「生活が苦しくても手放せなかった打掛を今こそ着させていただきます」と園生の前と打掛への気持ちが現れている場面なのです。
(ちなみに武部源蔵も最低限の着物しかなかったため、裃を貸衣装で調達しています。このように紆余曲折があっても懸命に生きてきた夫婦の様子が衣装にも散りばめられています。)

戸浪を全力でバックアップする園生の前

打掛を戸浪に贈る以外にも、園生の前は戸浪を大切にしています。「筆法伝授」の中で菅丞相と園生の前が会話する場面がありますが、園生の前の着物の影に戸浪を隠しなんとか菅丞相の様子を見せてあげようとする場面があるのです。登場人物全員が「おそらく今日が今生の別れの日」と察しがついているためです。

「着物の影に隠れても普通気づくのでは、、」と思う方もおられるかと思いますが、歌舞伎の演技は時に濃密にその場面の心情を観客に注ぎ込むような力があります。勘当された昔の家来の為に今も労力を惜しまない貴婦人と、その思いに心から感謝する戸浪の姿は「歌舞伎ってイメージしていたより全然見やすくて面白い」と思ってもらいやすい名場面の一つです。

「筆法伝授」を見てから「寺子屋」をみると感動が深まる理由

本記事の冒頭で「『菅原伝授手習鑑』は、菅原道真公が直面する「勢力争い」「家族」「三つ子の兄弟」「弟子の武部源蔵」の4要素が絡み合い展開する」と記載しました。その様子をまとめると以下の図となります。

※△は話題に登場するも舞台上にはでてこないことを意味します。
※家族は菅原道真公(菅丞相)の家族を意味します。
※イエロー塗りから「筆法伝授」「寺子屋」のみが主要人物の構成が同じことがわかります。

本節では筆法伝授を見てから寺子屋をみると感動が深まる理由について解説していきます。

  • 武部源蔵が「寺子屋」で懸命に管秀才を守る理由がわかる
  • 武部源蔵を経由して管秀才へ奥義伝授の可能性が残った

武部源蔵が「寺子屋」で懸命に管秀才を守る理由がわかる

「筆法伝授」を知ることで、武部源蔵たけべげんぞう戸浪となみとの禁じられた恋愛を知っても命までは奪わなかった菅丞相かんしょうじょうへの深い恩義があり、自らの意思で管秀才かんしゅうさいを預かったことがわかります。
筆者はかつて「筆法伝授」を知らずに「寺子屋」を鑑賞し「武部源蔵はなぜ管秀才を預かることになったのだろう」「なぜ管秀才をこれほど必死に守れるのだろう」と思い、忠義のためにボロボロになる人の辛さに打ちのめされました。その後「筆法伝授」を鑑賞し、武部源蔵の必死さの理由がだいぶ腹落ちしました。
「筆法伝授」と「寺子屋」の物語は深く関連しているため、「寺子屋」を初めて見る方は本記事も活用いただき「筆法伝授」のあらすじを把握されますと一層感動が深まるのではないかと思います。

武部源蔵を経由して管秀才へ奥義伝授の可能性が残った

武部源蔵は奥義の伝授を受けた直後に管秀才を預かることになりました。これにより管秀才を守り抜いた暁には命だけでなく、武部源蔵から管秀才へ奥義伝承の可能性が残ったことになります。名家の断絶を避け、命を守るだけでなく学問も伝えていくことは現代人が思う以上の重みがあるように思います。繰り返しになりますが「寺子屋」単体でもすばらしい演目です。一方で「筆法伝授」を知ってから「寺子屋」を見ると、感じるものが増えて味わいが深まることも間違いないように思います。

菅原道真と天神信仰のつながり

『菅原伝授手習鑑』の背景には、菅原道真公の実像と、その後に広がった天神信仰があります。菅原道真公は学問に秀でた右大臣でしたが、藤原氏の政争により太宰府へ左遷され、失意のうちに没しました。その死後、都で天変地異が相次いだことから怨霊視され、やがて「学問の神」として祀られるようになります。この信仰は寺社の建立や文化に大きな影響を与え、今日でも合格祈願として全国で親しまれています。天神様のお守りを握り心を落ち着け、自身を鼓舞した方は多くおられることと思います。「筆法伝授」では、道真公の学問的権威が物語の基盤となり、観客は信仰と物語が重なり趣を感じることができます。

まとめ

  • 「筆法伝授」は源蔵と菅丞相の関係を描き、忠義だけでなく主人の人間的魅力にも突き動かされた人間模様を描いている。
  • 登場人物の相関や勘当にまつわる経緯を理解すると、登場人物の葛藤が忠義と主人への感謝からきていることがわかる。
  • 「寺子屋」は単独で観劇しても感動があるが「筆法伝授」のあらすじをおさえてから鑑賞するとより深く味わえる。

    筆者は事前情報をいれずご自身の感性が受け止める感想を大切にして歌舞伎を鑑賞し、後から関連情報に触れていくのも良い鑑賞法と思っています。一方で「菅原伝授手習鑑」のような長編の場合、各場面の掛け合いが生む効果も魅力の一つでもあると思っています。本記事が歌舞伎に興味を持った方、歌舞伎を大切に思う方のお役に立ちましたらうれしく思います。

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