歌舞伎の「勧進帳」を御存知の方は多いと思いますが「御贔屓勧進帳」という演目は初めて聞くという方は多いのではないでしょうか。両者は物語の大枠は共通しますが「勧進帳」は高尚、「御贔屓勧進帳」はもっとポップな感じとかなり趣がことなります。この記事では「御贔屓勧進帳」について歴代の市川團十郎の活動と併せて解説していきます。
御贔屓勧進帳の登場人物
御贔屓勧進帳の主な登場人物は以下の3名です。

御贔屓勧進帳のあらすじ
源義経は兄の源頼朝から命を狙われているため逃亡の旅を続けています。安宅の関までたどりついた時、すでに「義経一行が山伏の格好をして逃亡中」という知らせが飛び交っていました。安宅の関を守る富樫左衛門やその家来達は厳戒体制であやしい人物を見張っています。

義経の家来である弁慶は山伏の修行をした経験がある為、弁慶と他の家来は山伏のフリをし、義経が強力(荷物持ち)のフリをして安宅の関を突破を試みます。
富樫は「本当に山伏で勧進を募る旅の途中ならば、勧進帳を読み上げなさい。」と言ってきます。弁慶は全く別の巻物をつかって本物の勧進帳であるかのように読み上げる芝居をしました。

ここまで立派によみあげられるならば本物の山伏なのだろうと、義経一行は関所を通過できるようになりましたが、富樫の家来が「強力が義経に似ている」と気づきました。
弁慶は義経を守るため「貴様のせいで疑われるではないか!」といった様子で金剛杖で義経を打ち付けました。
この様子を見て富樫は感心し関所通過を許します。
(ここまでは「勧進帳」とほぼ変わりません。ここからが「御贔屓勧進帳」らしさが炸裂する場面となります。)
関所を通過できることになった義経一行ですが、弁慶だけがなぜかつかまってしまいます。縄をかけられ「えーん、えーん」と泣いては近くの番人に「一行はどこまで行っただろうか」と尋ねます。もう十分距離が開いたと思った弁慶は、あっさりと縄をひきちぎり近くにいた番人の首を片っ端から引き抜きます。

最終的には大きなの桶の上に弁慶がたち、桶の中で引き抜いた首を洗うという奇想天外なシーンで幕となります。この豪快に首を洗う様子から通称”芋洗い勧進帳”の名も生まれました。
(以下、最後の様子のイメージ図をぼかしつつ掲載します。実際の公演でも全くリアルな表現はせず、会場には笑い声も聞こえる状況です。)

奇想天外な「御贔屓勧進帳」は初演当初どのような演目だったのか
江戸時代の歌舞伎界は役者と一年契約して興行していくスタイルでした。その一年のスタートが11月であり「向こう一年はこのメンバー構成で興行します」という意味合いで顔見世興行がうたれていました。その習慣のなかで「顔見世にやる歌舞伎狂言はこれとあれ」といった決まりごとがたくさんあり、その一つに「御贔屓勧進帳」も含まれていました。
“お正月には曽我兄弟の物語”といった慣習は今の歌舞伎界にも残りますが、それに類するような顔見世の習慣もあるということですね。
最後の桶で首を洗う場面は抵抗がある方もおられると思います。では一体なぜこのような場面があるのでしょうか。それは弁慶の力強さは人気があったということと、「力強いものを見ると魔除けになる」という受け止め方をする当時の感覚が影響するようです。
そしてなによりも時代の気風が笑いに対しておおらかであったということが大きいように筆者は思います。現代の「御贔屓勧進帳」もそのおおらかさを存分に引き継いでいます。縄を引きちぎってからの弁慶は「ここから笑わせますよ、楽しんでください♪」といった雰囲気です。これから「御贔屓勧進帳」を見る方は江戸にタイムスリップして当時の感覚を楽しむ感覚で見てもらえるとちょうどいいかもしれません。
「勧進帳」が歩んだ歴史を歴代の團十郎の功績から振り返る
ここまで読んでくださった方は「御贔屓勧進帳」は「勧進帳」のアレンジ版かなと思われたかもしれません。実は時系列でたどると一般的に知名度の高い「勧進帳」より先に「御贔屓勧進帳」が誕生しています。いくつかの段階を経て現代の「勧進帳」と「御贔屓勧進帳」ができましたが、その節目にはその時代の市川團十郎が関わっています。この説では勧進帳と関わりの深い團十郎達の功績を辿りながら変化の過程を解説していきます。
・初代團十郎により歌舞伎の勧進帳が生まれる(1702年)
・「御贔屓勧進帳」が江戸中村座で初演(1773年)
・七代目團十郎により「勧進帳」が登場(1840年)
・初代團十郎により歌舞伎の勧進帳が生まれる(1702年)
初代市川團十郎が1702年に「星合十二段」という演目を作り自ら主演しました。その中に能「安宅」の弁慶が勧進帳をめぐり奮闘する場面を取り入れました。これが最初の歌舞伎の勧進帳ですが「勧進帳」というタイトルではなく、いわば原形にあたります。
「御贔屓勧進帳」が江戸の中村座で初演(1773年)
意外かもしれませんが「御贔屓勧進帳」はここで登場します。
ちなみに「御贔屓勧進帳」の弁慶は一般的なイメージの弁慶より数倍鮮やかな荒事の衣装を着ています。『義経千本桜』の「鳥居前」に登場する弁慶も相当派手なのですが、いい勝負の派手さです。少々細かい話になりますが、『義経千本桜』が歌舞伎化されたのは1748年ですので、約70年前の「星合十二段」よりも25年前の『義経千本桜』の拵えに倣っても無理はないのかもしれません。(『義経千本桜』の「鳥居前」は当ブログでも記事にしていますので、興味のある方は見てみてください。)
七代目團十郎により「勧進帳」が登場(1840年)
七代目市川團十郎は非常に才能に恵まれたアイデアマンであったようです。彼の功績は非常に大きいのですが本節では「勧進帳」に関係する部分を取り上げます。まず「松羽目物」というジャンルを確立しました。能舞台の背景に老松が書いてありますが、これを歌舞伎の舞台装置に取り入れたものを「松羽目」と呼びます。その松羽目の舞台で行う歌舞伎は「松羽目物」と呼ばれます。
舞台装置として取り入れるのみならず、七代目は能を歌舞伎に積極的に取り入れていきました。七代目は初代團十郎のことを強く意識していたようで「星合十二段」の弁慶の勧進帳の場面を松羽目の舞台で演じる現代にも引き継がれる「勧進帳」に近い形にまとめました。現在も「勧進帳」は松羽目物の代表的な演目として親しまれています。
※「御贔屓勧進帳」は公演ごとにアレンジは多少ことなりますが、松羽目の舞台が使用されることは原則ありません。
(以下画像は「松羽目」のモデルとなった能舞台のイメージとして「靖国神社 能楽堂」)

まとめ
・「御贔屓勧進帳」は”芋洗い勧進帳”の通称が付く通り、最後には敵の首を大きな桶で洗うという奇想天外な物語だが、弁慶の力強さと江戸の観客のおおらかさを現代に伝える意味で興味深い演目である。
・「勧進帳」のアレンジ版のようなイメージを持たれがちだが「御贔屓勧進帳」の方が先に成立している。
・「御贔屓勧進帳」の弁慶は「勧進帳」の弁慶ではなく『義経千本桜』の「鳥居前」の弁慶に似ている。時系列で考えると義経千本桜→御贔屓勧進帳→勧進帳の順に成立しているので、そう考えると自然な流れである。
・初代團十郎が「星合十二段」で勧進帳の原形を作り、江戸中村座で「御贔屓勧進帳」が初演、七代目團十郎が「勧進帳」を作り洗練させていったというように、勧進帳には市川團十郎の歴史も深くかかわっている。
「御贔屓勧進帳」の最後の場面は深く考えると一大事な場面ですが、劇場内はいたって和やかな雰囲気で展開します。「江戸時代風のユーモアを見てみよう」といった気持ちで見に行かれると楽しめるのではないかと思います。興味をもたれた方はぜひ見に行ってみてください。



コメント
ご贔屓勧進帳の方が先とは、びっくりする情報でした。普通パロディが後に出来ると思いがちですよね。
コメントいただきありがとうございます。そうですね、なかなか現代人の感覚では思いつかないエンターテイメントですね。先に生まれているとは驚きで私も記事にしようと思った次第です(^^)